米軍嘉手納基地を見渡す

那覇空港近くでレンタカーを借りて国道58号線を読谷村に向かって走っていると、頭上を軍用ヘリが飛んで行きました。国道の右手には広大な米軍嘉手納基地が広がっています。写真は「道の駅かでな」の屋上から撮った米軍嘉手納基地。
同じ人類が殺し合いをする道具や設備が、地球上から早くなくなりますように。まだ思いつきのレベルですが、私は「平器」という構想を持っています。
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沖縄の戦跡(その3)

その2)で紹介したチビチリガマでは集団自決という最悪の結末になりましたが、このシムクガマに避難していた約1,000名の人たちは投降して無事でした。シムクガマに比嘉平治・比嘉平三という2名のハワイからの帰国者がいたことが、2つのガマの明暗を分けました。2人は「アメリカ兵は人を殺さない」とガマの中の人を説得し、アメリカ軍とも交渉し、ついに全員を投降させたのです。チビチリガマの内部は立ち入り禁止ですが、シムクガマは中には入ることができます。当時のお茶碗の欠片のようなものが今でも残っています。懐中電灯を消すとガマの中は真っ暗になります。当時ここに避難していた人々の恐怖がどんなものだったか、ほんの少しですが感じることができます。
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沖縄の戦跡(その2)

1945年4月2日、チビチリガマには約140名の人が避難していました。竹槍を持って外に出て行った人のうち男性2人がガマの前で倒れたのをきっかけに、人々はパニックに陥って集団自決を始めました。83名が亡くなり、そのうち6割が18歳以下の子供だったそうです。この場所でこのような悲惨な出来事があったことを、私たちはしっかりと後世に伝えなければならないと思いました。
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参考文献:読谷村の戦跡めぐり(読谷村史編集室・500円)
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沖縄の戦跡(その1)

1945年4月1日に、アメリカ軍は読谷村付近から沖縄に上陸しました。
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沖縄戦での日本側の死者・行方不明者は188,136人、沖縄出身者が122,228人、そのうち94,000人が民間人だったと言われています。

沖縄旅行(その6)

沖縄旅行の最終日16日は、マイミクのぐにさんに読谷村の戦跡を案内してもらいました。わずか半日の戦跡巡りでしたが、ぐにさんのお陰で密度の高い見学ができました。とくに、修学旅行生に地元のボランティアの人が戦争中にその場所で起こったことを説明しているのをいっしょに聴くことができたのは、とても有意義でした。これからももっと沖縄の戦跡巡りをしたいと思います。
その後レンタカーで那覇空港に移動し、JAL3978便で東京に戻りました。ぐにさん、いろいろありがとうございました。
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