東京都議会議員選挙の投票に行ってきました

票を投じたいと思う候補者は誰もいなかったのですが……
代議員は、構成員から選出され、構成員を代表して議会での討議や議決に参加する人です。このような議会での意思決定が、制度としての民主制の典型であるとされています。
でも……、
実態はほんとうにそうなのでしょうか?
彼らはほんとうに国民、都道府県民、市町村民の代表なのでしょうか?
彼らの本当の目的は、自らの権益を維持拡大し、それを次の世代に世襲することではないでしょうか?
そういうとんでもない下心を持った彼らを選ばなくてはならない国民に、主権があると言えるのでしょうか?
税金は彼らのために使われ、それをカモフラージュするために、ほんの一部が国民ために使われているにすぎないのではないでしょうか?
18世紀以降の市民革命によって民主主義が打ち立てられたと言われていますが、実はまだ人類は、ほんとうの民主主義を経験していないのではないでしょうか?

ふと、つぶやく

まず仕組みを作り上げてそこに人を貼付けるような方法は、うまく機能しなかったり、思わぬ反作用が生じる場合が多い。一人ひとりの実践のなかからひとりでに仕組みが出来上がっていくような方法のほうが、私は好きだ。

「勝ち負け」という概念

何度も引用している有史以前の出来事が起きる前には、人々の間に「勝ち負け」という概念は存在しなかった。「ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男」と「ほかのウマに乗った連中」との間で争いが始まったことにより、初めて「勝ち負け」という概念が生まれた。この争いは当初は、権力者たちの縄張り争いだったのだが、権力者たちは極めて巧みな手口で、羊飼いたちを戦いの当事者にしてしまった。「戦いに負ければ、羊を飼うことができるこの土地が失われるのだ」と。こうして争いの目的はすり替えられ、人々は「勝ち負け」を自分たちの問題だと思い込むようになった。このすりかえをさらに巧妙化したのは「競技」という概念の発明であった。

世襲について

特別な権益が得られるおいしい立場にいる人たちは、他人の参入を排して、その立場を自分の子供に継がせたいと考えるだろう。世の中を見渡すと、同じ地位を同じ一族が何代も独占している例がたくさんあるが、たいていはこのパターンである。そして、そのような権益がどうして得られるのか、それをその一族が独占できるのはどうしてなのかということが問われる機会はとても少ない。