慰霊の日に

6月23日は慰霊の日です。
<日本国憲法前文の抜粋>
政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

著作権に対する個人的な意見

最近、とても印象深かった出来事(→こちら)。彼女自身は多くの著作権を有するのだが、その彼女のつぶやきは一般の人々の気持ちをとてもよく代弁していると思う。
著作権法によれば、著作物とは「思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」である。著作権はこれらの著作物に対する複製・上演・演奏・上映・口述・公衆送信・翻訳、翻案等を著作者が支配できる権利である。著作権は財産権の一種であり、なんの手続きをしなくても著作または発表した時点で自動的に生まれる(無方式主義)。
また、単に財産として保護されているだけでなく、著作者の人格的利益を侵害する態様による著作物の利用(たとえば第三者による著作物の変更、切除その他の改変など)を禁止する権利である著作人格権も認められている。
さて、以下は私の個人的な意見です。
著作権が軽んじられると著作者の創作意欲が削がれるという意見があるものの、デジタル技術が発達するなかでの知識や情報には公共財としての側面が重要視されてきており、著作権を過度に保護することは必ずしも公共の利益と合致しない。財産権としての著作権の存続期間については、現行(著作者が死亡してから50年を経過するまでの間)よりももっと短い年限を定めることが望ましい。私のバランス感覚では、権利発生から5年間程度が妥当だと考える。一方、著作人格権については、著作者の生存中は保護されるべきである。

次のステップ

「人災」であるという調査報告書が提出された以上、次のステップは、関係者一人ひとりの行為(作為・不作為)を詳細に調べて、違法性が認められるならば刑罰を科すことである。
それが再発防止への第一歩になる。

「平器」について考えたこと

今回の北朝鮮のミサイル発射は、「平器」構想(→2010年6月23日の記事)について、より具体的に考える機会を与えてくれました。この件を通して、次のようなことを感じました。

  1. 身に降り掛かってきた火の粉を払う行為であっても、場合によっては相手に口実を与え、紛争や戦争の引き金になる可能性がある。
  2. 「平器」を作るには最先端技術が必要だが、まだまだそのような技術的レベルにはほど遠く、空想の域を出ない。
  3. 「平器」を作るには巨額に費用がかかる。
  4. 弾道ミサイルだけなく、さまざまな種類の攻撃に対する防御も必要である。
  5. どのような組織が「平器」を維持運用するかは、慎重に検討する必要がある。
  6. 「平器」を作るよりも、もう一歩進んで「平器」すら要らない世界を作ることが究極の目標である。

「平器」の要件も少し変わりました。

  1. 他者を攻撃して傷つける機能を持たず、ふりかかってくる火の粉を振り払うことだけに特化している(「迎撃」ではなく、むしろ「電磁バリア」や「防弾チョッキ」のイメージ)。
  2. それが「平器」に該当することが国際的な中立機関によって承認されている。
  3. 使用できる状況及び使用方法を定めた明確で具体的なガイドラインが制定されており、それに従って使用する場合は応戦と見なされない。
  4. 使用した際には、直ちに詳細な使用状況を公表する。

「ドイツのエネルギー転換未来のための共同事業」を読んで

ドイツの「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」が2011年5月30日に発表した「ドイツのエネルギー転換未来のための共同事業」を読みました。特に「4 倫理的立場」の下の箇所に強い感銘を受けました。
4.3 基本的な対立:絶対的な撤廃VS比較衡量
絶対的な判断
<中略>
とりわけ高い災害可能性を持った原子力エネルギーに対しては、福島によって実証されたように、事故や事故連鎖から、このような(設定された)限界を超えるような出来事が発生してくるのであって、その経過を「残余リスク」として片付けることは、倫理的に受け入れることはできない。
<中略>
4.4 倫理委員会における共通の判断
<中略>
すなわち、原子力発電からの電力が、生態学的、経済的、社会的な配慮の基準に即してリスクのいっそう少ないエネルギーによって代替され得る限りで速やかに、原子力発電の利用を終わらせる、ということである。
<中略>
遠く離れたドイツがこのような強い決意を表明したのに対して、当事者の日本の対応はあまりにひどすぎると思います。

ブータンに習え

以前にも一度書きました(→こちら)が、そろそろGDPのような量的な基準とは決別する時期が来ていると思います。国民総幸福量は、次の9つに関する72項目の聞き取り調査によって計られるそうです。

  1. 心理的幸福
  2. 健康
  3. 教育
  4. 文化
  5. 環境
  6. コミュニティー
  7. 良い統治
  8. 生活水準
  9. 自分の時間の使い方

ふとひらめいたこと

今日の朝、芝浦の運河沿いを歩いていて、ふと思いついたことがあります。
バザール方式で、みんなが思っていることを自由に書きこんで、それで世論の形成や、さらには政策上の意思決定までできるようなネット上の新しい「場」ができないだろうか……
人類はすでにLinuxカーネル開発の体験を持っているのだから。
(参考文献はこちら

政治の目的

政治の目的は、
国民の暮らしをよくすることではない。
もし今までそう思っていたとしたら、
それはまんまと政治家の術中にはまっていたのである。
他の勢力グループに勝って、
権力構造を維持することだけが政治の目的である。
国という存在の起原について、バックミンスター・フラーが「クリティカル・パス」のなかでこのように書いています。
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 自分の民と群れの世話をしている羊飼いの王がいる。そこに、ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男がやってきた。彼は羊飼いの王のところに乗りつけ、頭上から見おろして言う。「さて、羊飼いさんよ、あんたがあそこで飼っているのはとてもみごとなヒツジだからな。知っているかい、ここら荒野であんな立派なヒツジを飼うっていうのはかなり危険なんだぜ。この荒野は相当危ないんだ」。羊飼いは答える。「俺たちは何世代もこの荒野でやってきたが、困ったことなど一つも起きなかった」。
 それ以来、夜ごと夜ごとヒツジがいなくなり始める。連日のように、ウマに乗った男がやってきては言う。「まことにお気の毒なことじゃないか。ここはかなり危険だって言ったろう、なあ、荒野じゃヒツジがいなくなっちまうんだ」。とうとう羊飼いはあまりに災難がつづくので、男に「保護」を受ける対価としてヒツジで支払い、その男が自分のものだと主張する土地で独占的に放牧させてもらうことに承諾する。
 羊飼いが侵入している土地は自分の所有地だという男の主張にあえて疑問をさしはさむ者はいなかった。男は、自分がその場所の権力構造であることを示すために棍棒を持っていた。彼は羊飼いの背丈をはるかに越えて高く立ち、あっという間にウマで近づいて羊飼いの頭を棍棒でなぐることができた。このようにして、何千年も昔に、20世紀でいうゆすり屋の「保護」と縄張りの「所有権」とが始まったのである。小男たちはこのときはじめて、いかにして権力構造をつくり、その結果、いかにして他人の生産力に寄生して生活するかを学んだのだった。
 その次に、ほかのウマに乗った連中との間で、誰が本当に「この土地を所有している」と主張できるかを決する大規模な戦いが始まった。……
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