ウィキペディア創設者ジミー・ウェールズからのお願い

私がウィペディアのことを初めて知ったとき、Linuxカーネルの開発ストーリーとともに、人類の未来に明るい光が差した出来事だと感じました。個人のプライバシーに関わることなどを除き、世の中のほとんどのプロジェクトをバザール方式で進めれば、合目的性と健全性が確保されるのではないかと思っています。伽藍方式バザール方式の違いについては、エリック・レイモンドの「伽藍とバザール」をご覧ください。
ウィキペディア創設者ジミー・ウェールズからのお願い
P.S.
私が昔、ウィキペディアの編集方法を紹介する特集を組もうと提案したとき、ほとんどの人が「そんな方法できちんとした百科事典ができるはずがない」と反対しました。あれから10年近く経って、当時反対した人の考え方が変わったとは思いませんが、たぶんそんなことは忘れてしまって、毎日ウィキペディアを使っているのではないかと思います。
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お上の仕事について

年金記録の問題など、いわゆる「お上(=政府ないし政府機関、省庁を指す俗用)」の仕事の杜撰さがたびたび報道されてきましたが、今回の大阪地検特捜部主任検事によるデータ改ざん疑惑は、「お上」の仕事のもっと本質的な問題を浮き彫りにしたのではないかと思います。「お上」の仕事が問題を生みやすい理由とその解決策を考えてみました。
<理由と改善策>
1)閉鎖性
閉ざされた「場」で行われることは、たとえ最初は高い理想に裏打ちされていたとしても、どんどんその質が劣化し、効率が低下し、ついには当初の目的を見失っていきます。
解決策:個人情報に関わるもの以外はすべて積極的に公の場に晒し、それについて自由な意見を求め、その意見に対する意見も出してもらい、こうした動的な情報交換のなかから次の方向性を見つけて「継続的改善」を続けていくべきです。
2)地位と目的の本質的な勘違い
日本は封建制度の下での「支配・被支配」の関係を完全には払拭できていないので、「お上」の頭の中には自分たちは「支配者側の一員」という意識が残っています。憲法第15条第2項には「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。」と明記されていますが、「お上」の集団意識の奥底には自分たちが「奉仕者」だという意識は希薄です。逆に、本音ベースの組織目的は、「全体への奉仕」ではなく、「支配・被支配体制の維持継続」にあります。
解決策:行政の主要な方針決定を市民が主役となって行うように改めるとともに、PFIの手法を広範に活用して、ほとんどの行政サービスを民間が行うようにすべきです。
3)無謬でなければならないという神話
永らく「お上」は無謬である(けっして間違いをしない)という神話が存在していました。だから、明らかに間違いであることが分かっても「お上」は絶対にそれを認めず、謝ることもしませんでした。そればかりか、誤りを見つけると、それが外部に出ないように必死で隠蔽してきました。もっとエスカレートすると、「お上」が作り出した(捏造した)事象までも事実であると錯覚するようになります。それが今回の事件です。
解決策:人間の仕事には必ず一定の確率で間違いが含まれるものだという認識にたって、仕事の結果を全面的にオープンにし、できるだけたくさんの第三者の精査や監査を受けて、間違いがあったらすぐに訂正するというやり方に改めるべきです。性質上やむをえず秘密にする事柄については、事後でもいいので、早い機会にオープンにして、もれなく第三者の監査を受けるべきです。
<まとめ>
行政は、伽藍方式ではなく、バザール方式で行うべきです。
参考:「伽藍とバザール」 
    Eric S. Raymond 著
    山形浩生 訳 

尖閣諸島沖での衝突事件について

こういう問題は、国際的な場で日本の意見をはっきりと述べ、他国が無視できないような強い国際世論を形成するべきです。
今回、一本筋の通った方針が定まらないままに、対処療法的な対応をしてしまったのは非常に残念です。特に、政治から一定の独立性を持つべき検察が政治的・外交的判断を保釈の理由にしたのはもってのほかだと思います。

デジタル化と紙

教科書をデジタル化しようという動きがあり、賛成・反対の意見が多数出ています。
私自身は、教科書のデジタル化に賛成です。
従来は情報自体が希少な存在だったので、せっかく得られた情報を忘れてしまわないように暗記することが必要でした。高校までの学習も暗記に主眼が置かれていて、入試問題も暗記力を試すものが多かったです。ところが、情報のデジタル化とインターネットの普及によって、必要な情報をすぐに画面に呼び出せるようになったので、暗記する必要性がどんどん薄れてきました。にもかかわらず、教育の現場は、従来どおりの暗記中心の学習を生徒に強いています。
したがって、教育の目標を以下の能力の習得に改めるべきです。
1)基礎的なスキルとしての情報リテラシー
2)文脈を正しく読み解く能力
3)読み手に主旨が正しく伝わる文章を書く能力
4)上記2)3)は少なくとも英語でも可能に
5)複眼的かつ総合的に理解し判断する能力
6)自分や他者の知見を発展させて、さらに高次なものを生み出す能力
そして上記の能力を正しく使うために、
7)他者に対する思いやりの心
デジタル化反対の意見には「紙でなければ……」というこだわりが多いようですが、紙はとてもスペシャルな媒体として、今後もっともっと存在価値が高まっていくのではないかと思います。手書きの文字も同様です。
最後に、「キーボードは打てても紙に字が書けなくなる」という懸念がありますが、これはある程度しかたがないことだと思います。ただ、字をきれいに書くための授業は、一般教養として残すべきだろうと思います。
<27日付新聞広告>
32.6:500:334:0:0:20100904-03:center:1:1::1:

「平器」構想

「やられたらやり返す」という考え方にたった「兵器」を保有することが抑止力になると、多くの人が考えています。でも「兵器」はほんとうに抑止力になっているのでしょうか?「兵器」を持つがゆえに力と力がぶつかり合い、戦争が起きるリスクが高まっているのではないでしょうか。
私は、「平和」のための「器」である「平器」を持つことを提唱します。「平器」はふりかかってくる火の粉を振り払うことに特化した装置で、他者を攻める機能をまったく持たないことを中立な国際機関が審査して認定します。「平器」を購入する国に対しては、補助をしてもいいと思います。その資金はいまだに「兵器」を持つ国が拠出するべきです。
優れた工業技術をベースに「平器」を量産して世界中に輸出するとともに、文明や民族の衝突の間にたってクッションの役割を果たすことが、日本の役割ではないかと考えます。
平成22年6月23日 沖縄慰霊の日

今日はジョン・レノンの命日

ジョンレノンは、1980年12月8日、ニューヨーク市の自宅アパートダコタハウス前において、狂信的なファン(とされている)マーク・チャップマンに銃撃され死亡しました。
私は彼の「Imagine」がたまらなく好きです。
というか、これは全人類に宛てた彼のメッセージだと思います。
文明の衝突や国際紛争などで流血事件が相次ぐなか、
もう一度、国とは何か、宗教とは何かを
問い直してみる必要があるのではないでしょうか。
Imagine  JOHN LENNON
Imagine there’s no Heaven
It’s easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today…
Imagine there’s no countries
It isn’t hard to do
Nothing to kill or die for
No religion too
Imagine all the people
Living life in peace…
You may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one
Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world…
You may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one
それで、国についての私論を少し。私は自分のことをアナーキストだと思っています。日本ではアナーキスト=テロリストみたいな印象が強いですが、けっしてそうではありません。無政府主義者という訳がよくなくて、ほんとうは無国家主義者です。
国という存在の起原について、バックミンスター・フラーが「クリティカル・パス」のなかでこのように書いています。
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 自分の民と群れの世話をしている羊飼いの王がいる。そこに、
ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男がやってきた。彼は羊
飼いの王のところに乗りつけ、頭上から見おろして言う。「さ
て、羊飼いさんよ、あんたがあそこで飼っているのはとてもみ
ごとなヒツジだからな。知っているかい、ここら荒野であんな
立派なヒツジを飼うっていうのはかなり危険なんだぜ。この荒
野は相当危ないんだ」。羊飼いは答える。「俺たちは何世代も
この荒野でやってきたが、困ったことなど一つも起きなかった」。
 それ以来、夜ごと夜ごとヒツジがいなくなり始める。連日の
ように、ウマに乗った男がやってきては言う。「まことにお気
の毒なことじゃないか。ここはかなり危険だって言ったろう、
なあ、荒野じゃヒツジがいなくなっちまうんだ」。とうとう羊
飼いはあまりに災難がつづくので、男に「保護」を受ける対価
としてヒツジで支払い、その男が自分のものだと主張する土地
で独占的に放牧させてもらうことに承諾する。
 羊飼いが侵入している土地は自分の所有地だという男の主張
にあえて疑問をさしはさむ者はいなかった。男は、自分がその
場所の権力構造であることを示すために棍棒を持っていた。彼
は羊飼いの背丈をはるかに越えて高く立ち、あっという間にウ
マで近づいて羊飼いの頭を棍棒でなぐることができた。このよ
うにして、何千年も昔に、20世紀でいうゆすり屋の「保護」
と縄張りの「所有権」とが始まったのである。小男たちはこの
ときはじめて、いかにして権力構造をつくり、その結果、いか
にして他人の生産力に寄生して生活するかを学んだのだった。
 その次に、ほかのウマに乗った連中との間で、誰が本当に
「この土地を所有している」と主張できるかを決する大規模な
戦いが始まった。……(P135~136)
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21世紀の今日もなお続いている「支配・被支配の関係」は、おおよそこんな物語から始まったのだと思いますね。そして、この物語に終止符を打てるかどうかが、21世紀の課題なのだろうと思います。