「きいろいゾウ」

子供が「初日舞台挨拶のチケットをとってほしい」というので、発売時刻ちょうどから固まって動かない映画館のサイトの更新ボタンをクリックしまくり、約7分経過後にようやく繋がってチケットをgetした。座席は後ろから3列目の端っこのほうだった。ともかく、生まれて初めて舞台挨拶なるものを観た。
舞台挨拶の感想は、

  1. 後ろのほうの席だったのでよく見えなかった(双眼鏡が必要)。
  2. どの出演者もスピーチがあまりに優等生的すぎるのでは……

53.6:493:500:0:0:20130202-01:center:1:1::1:
この作品は、西加奈子の同名小説を映画化したもので、監督は廣木隆一である(公式サイトはこちら)。
宮﨑あおい演じる「ツマ」があまりに天真爛漫なので、きっととんでもない方向にストーリーが進むに違いないと思いながら前半を観ていた(私は原作の小説を読んでいない)。
人間の一生のうちにはいろいろな出来事が起きるが、その出来事の受け止め方によっては、ずっと後まで心の傷を引きずることになる。この作品には、そのような傷を引きずった人たちが登場し、ストーリーが進むなかで心の傷を負った経緯が少しずつ明らかになっていく。そして、なにかのきっかけで別の新しい受け止め方が生まれ、心の傷が癒される瞬間がある。この作品には、そういった微妙な心の動きがうまく描かれていたと思う。
ただ、「ツマ」さんは、私にとって最後までミステリアスな女性であった。原作を読めば、もう少し分かるのかもしれないが……

「レ・ミゼラブル」

27.5:350:262:0:0:20130101-01:center:1:1::1:
みんな歌がうますぎ!
特にエポニーヌ役のサマンサ・バークスの歌唱力が素晴らしかった!
映画の公式サイト(→こちら
追記:ロマン主義の作品においても、キリスト教の啓蒙的な主題が色濃く存在することに、あらめてこの作品の舞台は「西洋」なんだと感じました。

’60〜’70年代と現在の比較(その3−2)PDAについて

その3)で計算機のことを取り上げたので、その勢いでPDAについても書きます。
’99年:CASSIOPEIA E-55 + パルディオ611S
 この機種の特筆すべき点は、
 コンパクトフラッシュType2スロットにパルディオ611Sを差すと
 そのままデータ通信ができ、メールの受送信ができることです。
 OSはWindows CE 2.11。
 軽くて小さいので、けっこう使い倒した記憶があります。
’02年:Palm Vx
 データ通信はできなかったけれど、
 軽くて、洗練されたデザインで、
 かつ使いやすかったです。 
 もっと長く使いたかったのですが、
 液晶が壊れてしまいました。
 
’03年:CLIE PEG-TG50
 壊れたVxの次のPDAとして購入しました。
 なぜもう一度Palmにしなかったのかは、
 よく覚えていません。
 カラー液晶に惹かれたのかもしれません。
 でも、あまり使い勝手がよくなかったと記憶しています。
’05年:W-ZERO3 WS003SH
 
 鳴り物入りで発売になった国産スマートフォンの走り。
 すぐに飛びついて買いましたが、
 重くて大きくて、
 Windows Mobile 5.0も使いづらかったです。
’06年:Palm m515
 W-ZERO3への不満と、
 Palm Vxが使いやすかったという記憶から、
 衝動的にヤフオクで落札しました。
 Vxほどではないですが、小さくて軽かったです。
 ただ、もうこの時期になると
 ネットに接続できないのが決定的なマイナス点でした。
’08年:iPhone 3G
 3Gの時代はスペック的に非力で、
 操作中にイライラすることが多かったです。
 この教訓から、一台でオールインワンにするよりも
 携帯電話・音楽プレイヤー・PDAを分ける方向を選べました。 
現在:iPod touch + BF-01B
 この組み合わせが自分に合っていると思います。
 でも、Xi対応のBF-01Dが発売されたら
 たぶん買い替えると思います。

’60〜’70年代と現在の比較(その3)計算機について

ALWAYS 三丁目の夕日’64の感想(→こちら)をきっかけに始めた’60〜’70年代と現在の比較のシリーズの(その3)は計算機です。ただし、今回は’60〜’70年代と現在の比較にせず、私が使ってきた計算機類を時系列で並べていきたいと思います。
’70年頃:トモエのそろばん 
 小学校高学年の頃に近所の珠算教室に通っていました。 
 友達がたくさんいたので、ほとんど遊びに行っていたに等しかったです。
 読上算はわりと得意でした。それが意外にも就職してから役に立ちました。
’77年頃:SHARP EL-5001
 関数なんてほとんど使いもしないのに新しい物好きなので買った電卓。
 訳が分からないまま関数のキーを押して遊んでいただけで、
 実用的には四則演算しか使わなかったです。
’80年:SHARP PC-1211
 BASICでプログラミングできる電卓。
 オプションでドットインパクトプリンタも備えたカセットインタフェースがありました。
 大学3年生の原価計算の試験で大活躍し、
 半数以上が「不可」という試験でみごと「良」を取りました。
 (今は絶対にこんな電卓は試験会場に持ち込み不可でしょう)
<パソコンの登場までしばらく計算機に対する関心は薄れます。>
’91年:NEC 98note NC
 98ノート初(世界でも初?)のTFTカラー液晶搭載のノート型パソコンで、
 私が初めて買ったパソコンです。
 今では考えられないことですがOSは別売りで、MS-DOS3.3Cを買いました。
 CPUはi386SXで、途中からCyrixのCx486SLCに置換しました。
 HDDは当初は40MBで、これももっと大きなものに替えました。
 ATOKか松茸か選んで起動するためにcofig.sysとautoexec.batを編集していました。
 OSは、MS-DOS→Windows3.0→3.1とアップデートしていきました。
’95年:DEC CELEBRIS GL 5133 ST
 CPUはPentium133MHzで、
 オンボードにMatrox Millenniumを搭載。
 OSは当初はWindows3.1で、すぐにWindows95にアップデートしました。
 当時としては間違いなく最速マシンでしたが、
 その後パソコンのスペックは加速度的に進化したので
 すぐに時代遅れになってしまいました。
 
’98年:Macintosh Performa 588
 会社でDTPのために導入したMac。
 クラシック環境がとても魅力的でしたが、
 作業中に落ちて、青ざめたことが何度も……
’00年:DOS/V機を自作
 マザーボード:ASUS P3B-F(440BXの定番のボード)
 CPU:Pentium3 700MHz
 メモリ:PC100 SDRAM 128M×2
 グラフィックボード:Millennium G400
 <その後に3台ほど自作>
’02年:Power Mac G4 933MHz
 個人で初めて買ったMac。
 クラシック環境とMac OS Xのどちらも起動できました。
 当時としては性能にまあまあ満足していましたが、
 冷却ファンの騒音がとても大きかったです。
’08年:Mac mini (Mid 2007)
 ほんとうはMac Proが欲しかったのですが、
 とても無理なのでMac miniを買いました。
 Intel Core 2 Duoはまあまあ速くて、
 このマシンは今でも現役です。
’11年:Mac mini Server
 自宅サーバーとして買ったけれど、
 家族にはあまり活用されていないので、
 Lionをインストールしてクライアントとして利用しようと目論みましたが、
 どうやらクライアント用OSはインストールできないようです。
’11年:Mac mini (BTO)
 今メインで使っているマシン。
 2.7GHz Intel Core i7、750GB HDD+256GB SSD、メモリ8GBと、
 けっこうハイスペックです。
 とくに起動ディスクをSSDにした効果は大きいです。
 
よく考えると、これとは別にPDAの遍歴を書けそうです。
 

'60〜'70年代と現在の比較(その2)お菓子について

その1)に続いて(その2)はお菓子についてです。
<’60〜’70年代>

  • 前田のクラッカー
  • 源氏パイ
  • エンゼルパイ
  • かっぱえびせん
  • パラソルチョコレート
  • ビスコ
  • グリコ
  • 春日井のシトロンソーダ
  • カルミン
  • ライオネスコーヒーキャンディ
  • ハイクラウンチョコ
  • ココナッツサブレ
  • カップヌードル(お菓子じゃないけど)
  • 名糖ホームランバー
  • 王冠の裏に当たりがあったペプシコーラ

<現在>

  • うまい棒?

最近のお菓子はよく知りません……

’60〜’70年代と現在の比較(その1)子供の生活について

「ALWAYS 三丁目の夕日 ’64」の感想を書きましたが(→こちら)、「この時代と現在で、どんなことがどんなふうに変わったか?」をまとめてみたくなりました。ただ、私1人が書いてしまうよりも、皆さんにコメント欄にどんどん書き込んでいただければいいなあと思っています。対象年齢を増やすために、比較を’60〜’70年代に広げたいと思います。
(その1)は「子供の生活について」です。
<’60〜’70年代>

  • とにかく毎日毎日草野球ばかりしていました。学校の始業前にも昼休みにも運動場で野球していたし、放課後は近くの公園で日が暮れてボールが見えなくなるまで野球をしていました。
  • 学校の帰り道に小川やあぜ道でザリガニ採りをしながら帰るのが日課でした。
  • インベーダーゲームが登場した1978年に私はもう大学1年生になっていたので、当然子供の頃にはテレビゲームはありませんでした。よくやったゲームは「バンカース」や「人生ゲーム」というボードゲームです。また、かなり大きくなってからも積み木をして遊んでいました。プラモデルもよく作りました。
  • いちおう塾にも通ったし受験勉強もしましたが、自分の時間全体に占める割合はかなり少なかったように記憶しています。
  • 昔の先生は威厳があって、怖くて、先生の言うことは聞かなければいけないという感覚がありました。それがよかったかどうかは、微妙な問題ですが……
  • 何か知りたいことを調べる手段が限られていました。図書館に行っても、田舎の図書館には自分の知りたいことが書いてある本はありませんした。
  • 遠くの人と知り合いになる機会も限られていました。

<現在>

  • 昔はひとりでに子供が集まって野球の試合が始まりましたが、最近は球技禁止の公園が増えてきました。そのせいか、現在は野球でもサッカーでも、チームに所属してプレイすることが多くなったように思います。自分の下の子は小学校のときに少年野球のチームに入っていました。そのときの友達とは成人した今でも連絡を取り合っているようで、子供にとってはいい体験だったと思っています。
  • 地域差がありますが、都会では自然がとても少なくなってきました。子供は自然の中で遊ぶほうがいいと思います。
  • ディスプレーとコントローラーを使ってするゲームが子供たちの遊び時間のかなりの部分を占めるようになりました。手触りの実感のない遊びは、子供の成長にとって問題ありと思っています。
  • 受験戦争は昔よりも激化していると思います。少子化がさらに進むのだから、大胆な発想の教育改革が必要だと思います。
  • 学校という「場」がとても病んでいるように感じられます。はっきり言って、???という先生が増えたと思います。教師は10年くらい別の社会経験を積んでからでなければなれないくらいの制度改革が必要だと思っています。(まあ、????という親もいますが……)
  • ちょっとググれば、たいていの情報にアクセスできるようになりました。ただし、受け取った情報の質を見極める力が求められるようになりました。
  • その気になれば、世界中の人と交流するチャンスが開けました。

ぜひ、子供の生活について、昔と今の違いをどんどんコメントして書き込んでいただけると嬉しいです。
追記:今気づいたのですが、「子供の生活について」というより「男児の生活について」という内容になっていますね。女性の方にはたいへん失礼しました。「女児の生活について」もコメントしていただけるとうれしいです。

「ALWAYS 三丁目の夕日 ’64」

1964年に私は5歳だった。その当時の記憶はかなり曖昧であるが、家にやってきたばかりのテレビで東京オリンピックを観たのをはっきりと覚えている。父親が運転するダイハツ・ミゼットの助手席に座っていた記憶もある。だから、とても懐かしかったし、それを六ちゃんが運転しているのを観て、ちょっと不思議な感じがした。
実は、今回が3D映画初体験であった。かなり以前にディズニーランドかどこかでごく短い3D作品を見たことがあるが、本格的な3D映画はこれが初めてである。「画質が今ひとつ」とか、「眼が疲れる」とか、勝手な先入観を持っていたが、予想外に好印象を持った。本作はもともと昭和30年代の風景を再現する高度なCG技術が売りの映画なので、そこからさらに一歩踏み出して3D化するのは当然の流れである。全体として、かなり控えめでありながら、それでいて効果的な3Dだったと評価したい。
さて、映画の中身に話を進めると、実は私は「ALWAYS 三丁目の夕日」も「ALWAYS 続・三丁目の夕日」も観ずに、いきなり本作を観た。もちろん、これまでのあらすじをごく簡単に調べておいたが、その程度の予備知識だけですっと本作の世界に入って行けた。とても単純なストーリーだが、随所にほろりとさせる場面がちりばめられており、笑える場面も多い。几帳面に作られた良作である。
映画が終わってから、この作品の時代と現在とを比べて、私たちが得たものと失ったものは何だろうかと考えた。いろいろなことが頭に浮かんで整理がつかないが、とても乱暴な言い方をしてしまうなら、「情報」の「報」の手段が飛躍的に高度化したが、逆に「情」の中身が伝わりにくくなったのではないだろうか。これについては、また別の機会に触れてみたいと思う。
32.3:500:350:0:0:20120223-03:center:1:1::1:

「アントキノイノチ」

アントキノイノチをぜひ観たいと思っていたが、昨年12月は多忙を極めたのでなかなか行けず、気がついたら都内のどの映画館でも上映が終わってしまっていた。もうあきらめかけていたところ、千葉の東金の映画館で上映しているのを見つけたので、14日に総武線・総武線快速・外房線・東金線と電車を乗り継いで観てきた。
本作は、2009年に上梓されたさだまさしの同名小説を映画化したものである。さだの本職はシンガーソングライターであるが、小説家としても多くの作品を書いており、「精霊流し」「解夏」「眉山」「茨の木」などが幻冬舎から発刊されている。監督は「感染列島」「ヘヴンズ ストーリー」の瀬々敬久。本作を観て私は、ぜひとも「ヘヴンズ ストーリー」を観たいと思った。また、主人公たちが勤める遺品整理業クーパーズは、実在する会社キーパーズがモデルになっている。
本作のストーリーの中に、主人公が高校の時の体験が回想シーンとしてちりばめられている。それらのシーンで一貫して描かれているのは、同級生や、あるいは教師でさえも持っている「自分は当事者にはなりたくない」という気持ちである。他人のことに積極的に関わるのをためらう雰囲気が、学校にも、会社にも、ネットにも、社会の底流に存在している。これはなにも現代社会に特有の問題ではなく、ずっと以前から存在したことなのだろうと思う。
その一方で、人はさまざまな関係性の中で生きている。昨年3月11日の震災以降「絆」という言葉がさかんに使われるようになったが、「絆」という言葉には、どこか押しつけ的な感覚、あるいは自分自身では選択できないもののようなニュアンスが含まれている気がして、個人的にはあまり使いたくないと思っている。血縁のような自分ではどうにもならない関係もあれば、たとえば人のブログにコメントを書くといった自発的で選択可能な関係もある。そのようなものを全部ひっくるめて「つながり」という言葉を使うほうが自分にはしっくりくる。
さて、本作で表現されている「つながり」の一つは、死者とその遺族の「つながり」である。不幸にして生前にはその「つながり」が途絶されてしまっていたが、死によって「つながり」が復元されるケースがいくつか描かれている。遺品には、故人が生前に思っていたことの形跡が残されているものが多い。その形跡が「つながり」を復元するのである。いや……、軽卒に『「つながり」を復元する』と書いてしまったが、正確にはそうでない。本人たちが忘れていても「つながり」はずっと存在し続けるのである。だから「つながりの存在を再認識させる」と言ったほうがいい。
もうひとつ描かれている「つながり」は、偶然出会った主人公たちの「つながり」である。主人公の人物設定によるものであるが、本作での会話はとてもゆっくりと交わされる。普段早口でたくさん伝えることに慣れてしまっている自分には実にじれったいテンポであるが、その会話の一つひとつに相手の対する思いやり、特に、このような状況に至ることになった過去の経緯に対する配慮や共感が感じられる。こうして生まれた新しい「つながり」から、「生きたい」という思いが生まれた。ネタバレになってはいけないので詳しく書かないが、映画の終盤に、これまでの辛い体験にさらに追い打ちをかけるような惨事が起きる。しかし、新しい「つながり」のおかげで、その惨事をも乗り越えて、主人公はこれから先の人生をしっかり生きていけるだろう。そう思えるからこそ、この映画を観終わった後に救われた気持ちになるのである。
最後は映画表現のテクニックのような話になるが、ストーリー上の重要なシーンが、映画の後半にもう一度視線を変えて映し出される。その視線は主人公を見守るまなざしである。ところが、エンドロールが終わった後にもう一度、海岸でのシーンがかなり遠くから映し出される。この視線はいったい誰の視線なのだろうと考えて、映画を見ている私自身の視線なんだと思い当たった。このカットによって作者は、鑑賞者の一人ひとりに「周りの人をやさしく見守っていますか?」「つながりを大切にしていますか?」と問いかけているのではないだろうか。

「好きだ、」

2005年の作品。
ユウ   宮崎あおい→永作博美
ヨースケ 瑛太→西島秀俊 
なんという不器用な男と女……
最悪の結末になってしまうのか?と思ったら、そうじゃなくてホッとした。
映画のタイトルが「好きだ。」ではなく、「好きだ、」なのがいい。

「ツレがうつになりまして。」

昨日、新宿の劇場で「ツレがうつになりまして。」を観てきた。
私自身は、2002年の6月にうつ病と診断され、今年の1月まで約8年半にわたって抗うつ剤を飲み続けた。おかげさまで現在は、寛解している(詳細は→こちら)。そんな私なので、2006年に出版された「ツレがうつになりまして。」と2007年に出版された「その後のツレがうつになりまして。」は真っ先に買って読んだ。そして昨日、映画を観終わってから改めて読み直してみたが、闘病中の当時に比べると、本に対する私自身の感想がずいぶん変わったことに気づいた。というか、当時は病気のせいもあってきちんと読んでいなかったのである。この2冊は、親しみやすいタッチで描かれたコミックエッセィなので、あっという間に読み切れるし、医学的な知見にきちんと基づいているし、うつ病というのはどんな病気なのかを理解するためにとても有益である。病苦の真っただ中にある人も、その家族も、あるいは職場の管理者も、ぜひ2冊セットで買って読んでほしいと思う。
さて、今回観た映画の「ツレがうつになりまして。」は、原作の主旨を汲んで、とても丁寧に作られている。描かれている中心テーマは「夫婦愛」である。だから、この映画をいちばん強く勧めたいのは、これから結婚を考えているカップルである。そういう二人なら、この映画から得られることがとても多いと思う。
次に観てほしいのは身近にうつ病患者がいる人であるが、注意が必要なのは、この映画のストーリーのようなうつ病への対応は必ずしも一般的ではないということである。あんなにスパッと会社を辞めてしまえる人はあまりいない(映画のストーリーでは、その後会社が潰れてしまうので、結果的には辞めて正解だったが……)。数ヶ月間の長期休暇を取得してゆっくり休養するのが一般的な治療パターンである。そしてむしろ、職場復帰の難しさこそが、うつ病克服のための最も高いハードルであったりする。だから、具体的な対応の手本としてこの映画を観るのではなく、うつ病という病気の理解のために観るのがいいと思う。
現在闘病中の人は、感じ方がさまざまだと思う。うつ病だと診断されたばかりで、まだあまり知識のない人には有益だと思うが、重症の人や遷延している人は、きっと「こんな生易しいものじゃない」と感じるだろう。ただ、徐々に寛解していくイメージを掴むにはいいかもしれない。
映画の後半で、主人公が「うつ病になって得られたことが多かった」と語る場面がいくつかある。これが、先に述べた「夫婦愛」とともに、この映画の重要なテーマのひとつである。病気はとても苦しいけれど、それに向き合うことで人は成長する。今まで見えなかったことが見えてくるし、自分の周りの人とのつながりがいっそう深くなる。失うものばかりではないことを、この映画は教えてくれる。
ここから先は私見になるが、うつ病は薬だけではなかなか治らないケースが多く、そういう場合には、発症の原因になっている人生の「歪み」のようなものを自分なりに解決して、人生そのものを再構築しなければ寛解しないと思う。だからこそ、周りの人の理解と協力が不可欠なのである。
映画が終わってエンドロールが流れ始めると、たいていの映画では人が立ち始めるが、昨日はエンドロールが終わって館内が明るくなるまで誰も立とうとしなかった。久々にいい映画を観たと思った。
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