「あしたのジョー」

あしたのジョーは、少年マガジンの1968年1月1日号〜1973年5月13日号に連載された。私は、連載開始時に小学2年生、連載終了時に中学2年生だった。テレビアニメは1970年4月1日〜1971年9月29日の水曜日19:00〜19:30にフジテレビ系列で放送された。私は小学5年生から6年生であった。
当時、少年マガジンを毎週欠かさずに買っていたわけではなく、特に小学校低学年の頃に読んだ最初のほうのストーリーはあまりよく覚えていない。しかし、ちばてつや自身が「再現は無理」と語るほどの渾身のラストシーンは、瞼の裏にしっかり焼き付いている。どうしてこの号の少年マガジンを保存しておかなかったのかと悔やまれる。また、学校の休み時間に、友達とクロスカウンター・ダブルクロスカウンター・トリプルクロスカウンター……と延々と繰り返して遊んでいたことが懐かしく思い出される。
最近の私は、年に何度か泪橋に行く機会がある。アニメでは泪橋の下に丹下拳闘クラブがあったが、現在この場所は暗渠化されていて川も橋もない。明治通りと都道464号線が交わるただの交差点である。この交差点から、今も簡易宿泊所が残る通りを言問橋方向に少し歩いたところに、珈琲御三家の一人田口護カフェ・バッハがある。
さて、前置きが長くなってしまったが、3月26日に実写映画のあしたのジョーを観てきた。劇場内を見渡すと、私のように子供の頃にアニメを見たおじさんと、若い女性とにまっぷたつに分かれていた。映画を観てまず感じたことは、ファイティングシーンのリアリティの高さである。ボクサーらしい肉体づくりも含めて、ボクシングの練習をかなり積んだ跡が随所に感じられた。決定打を受けてダウンするシーンの描写もリアルである。これにはたぶん、最新のCG技術が大きく貢献しているのであろう。特に丈と力石の試合はひじょうに見応えがあったが、あまりに過酷すぎるので、こういうシーンが苦手な人は見ないほうがいいかもしれない。どうしてそこまで戦うのかという質問は、たぶん登山家にどうして山に登るのか聞くのと同じくらい無意味なのだろう。
この作品の結末は多くの人が知っているのでネタバレを気にする必要はあまりないだろうが、本映画は物語の半分くらいのところであっけなく終わっていて完結していない。たぶん次回作が計画されているのだと思う。
追伸

  • 香川照之は丹下段平になりきっていて、ほんとに芸達者だなあと思った。
  • 丈の後ろ姿がとてもそれらしくて味があった。
  • 昭和30年代の風景がとても懐かしかった。

「ノルウェイの森」

ビートルズの「ノルウェイの森」はメロディラインが柔らかく、聴いていてとても心地よいので、彼らのナンバーの中でも好きな曲の一つである。歌詞の意味がよく分からなかったが、ずいぶん後になって、ジョンが不倫をしようとした状況を書いたものだと知った。
一方、村上春樹の「ノルウェイの森」が上梓された1987年に私はまさに「バブルまみれ」の状態だったので、とても小説を読むような心のゆとりなどなかった。バブル崩壊後は雑誌の編集の仕事に携わったが、そのことがさらに、私を小説のジャンルから遠ざけることになった。なぜなら、私が取り上げるべき内容は企業経営に関わるものが中心だったし、とにかく時間が限られているので、数時間の速読でその本の核心部分を大括りに把握するような読み方ばかりしていたからである。そんなわけで、正直に言うと、村上春樹の作品は今まで一冊も読んだことがなかった。
私が「ノルウェイの森」に関心を持ったきっかけは、私のマイミクが映画にエキストラとして出ていたからである。お正月2日に劇場で映画を観て、その後すぐに小説を読んだ。映画は律儀なほど原作に忠実に作られていたが、いかんせん上下2巻の物語を133分の映像に押し込めているので、とても重要だと思われるいくつかの場面が端折ってあった。小説を読まずに映画だけ観た人は、ぜひ小説も読んでみることをお勧めしたい。村上春樹の文体は、私が予想していたよりもずっと平易で読みやすかった。
この作品の主題ではないが、私にとって重要だと思ったポイントが一つある。「なぜ登場人物はこんなにいとも簡単に自殺してしまうんだろう?」「その理由がよく分からない」と思った人も多いだろうが、そこに合理的な理由は存在しない。しいて言えば、病気の症状がそうさせたのである。
ここまで長々と前置きを書いてきたが、ネタバレにならないように注意しながら核心部分に近づいていこう。物語は電話でのやりとりの場面で終わっており、主人公の最後のつぶやきの意味に対する解釈が人によって異なる。私は、小説にはあって映画にはないハンブルク空港での場面が、答えに近いものへと導いてくれるのではないかと思う(そもそも答えなんて必要ないのだが……)。けっきょく、死は生のなかに包含されており、生死の紙一重の境界を人は常に行き来している。最後の場面は、そのことがまだ漠然としていたゆえの主人公のつぶやきなのだろう。
主人公のような立場に置かれることはレアケースだと多くの人が感じたかもしれないんが、実はそうではない。また、病気に対する理解の度合いによっても、かなり印象が変わる作品だと思う。この作品に限らず一人称で語られる小説を読む醍醐味は、描かれている主人公の心のなかの領域を読者が自由に押し広げながら読むことである。