国立新美術館で行われているシュルレアリスム展を観てきました。
私が尊敬するアジェ(Eugene Atget)の写真がシュルレアリスムの中心人物のひとりであったマン・レイに評価され、機関誌「シュルレアリスム革命」で大きく取り上げられたという事実が、私のシュルレアリスムへの関心の出発点です。
ただ、多くのシュルレアリストたちの作品とアジェの写真との間にあまりに大きな隔たりがあることに、ずっと違和感を持っていました。今回シュルレアリスムの代表作をたくさん見ることができて、その隔たりの理由が分かったような気がしました。
シュルレアリスムの重要な方法論の一つに「オートマティズム」があります。「写真を撮る」というプロセスがまさにこの「オートマティズム」に該当するという理由で、純粋に記録としてパリの風景を撮り続けたアジェの写真がシュルレアリストたちの目に留まったのでしょう。
ただ、ブルトンが「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」で下記のとおり定義しているように、シュルレアリスムはあくまでも「心」が出発点なのです。
「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり」
アジェの写真の本質は、作者の「心」をいっさい消し去った「記録」に徹しているところにあって、一般的な意味での芸術性を排除することで逆により高次の芸術が出現する可能性を高めている点にあると、私は考えています。アジェをシュルレアリスムの写真家だと分類する人が多いですが、それは間違っていると確信しました。
追記:
本稿の内容とは関係ないですが、ダリの「不可視のライオン、馬、眠る女」を見て、彼の筆力はやはりすごいと感じました。
国立新美術館が近くにあったらいいのにな~。
と思いました。
東京に住むことのコストはとても大きいですが、こういう展覧会を簡単に見られるのはメリットの一つですね。この国立新美術館の建物は、故黒川紀章の作品です。
http://www.alpha-p.gr.jp/blog/index.php?UID=1198485158
ウジェーヌ(Eugène)って名前は芸術家 御用達かもしれませんな.
英語では ユージン(Eugene)
ドイツ語では オイゲン(Eugen)
ロシア語になると エフゲニ(Evgeny)
芸術家以外でいえば スタートレックの原作者は
ユージン・ロッデンベリー だぞ
スター・トレックはすでに芸術の域にありますなw
ダリの「聖アントニウスの誘惑」の実物を見たことがあります。
少し離れてみるとものすごく上手に見えますが,近づいてみると結構雑に描いてありました。
この筆加減の絶妙さが彼の天才的な画力の一端ではないかと思います。
写真家はどんなに「意識的に」自分の心を消し去ろうとしても,
その場所で光景を記録「しようとした」,その風景に向かう視線を消し去ることはできません。
人間がカメラを構えて風景に向かう限り,心のない視線などというものはないのです。
写真はシュールレアリスムでもないし,芸術でもないと私は思っています。
写真は撮影者が生きてきた世界への眼差し。
世界の何に注目したのかという記録。
写真に写った光景の真正面に,いつも撮影者はいるのです。
これは、撮影者の行動をどう位置付けるかの問題だと思います。たしかに、写真を撮る前提として、その風景に最初に対峙した撮影者のまなざしや、「この風景をこういうふうに切り取ろう」と思った意識は必ず存在します。その点に重要な意義を持たせる考え方もあると思います。
ただ、写真はそのような意識を超えて出現してきます。一筆一筆絵の具を塗り重ねて表現していく絵画とは、その点が決定的に違います。「写真は心を写したものだ」という表現がよく使われますが、それは「あとづけ」でこじつけているだけだと私は思っています。作者の心を飛び越えて新しい映像が出現するところに、写真の可能性の大きさを感じます。