「アントキノイノチ」

アントキノイノチをぜひ観たいと思っていたが、昨年12月は多忙を極めたのでなかなか行けず、気がついたら都内のどの映画館でも上映が終わってしまっていた。もうあきらめかけていたところ、千葉の東金の映画館で上映しているのを見つけたので、14日に総武線・総武線快速・外房線・東金線と電車を乗り継いで観てきた。
本作は、2009年に上梓されたさだまさしの同名小説を映画化したものである。さだの本職はシンガーソングライターであるが、小説家としても多くの作品を書いており、「精霊流し」「解夏」「眉山」「茨の木」などが幻冬舎から発刊されている。監督は「感染列島」「ヘヴンズ ストーリー」の瀬々敬久。本作を観て私は、ぜひとも「ヘヴンズ ストーリー」を観たいと思った。また、主人公たちが勤める遺品整理業クーパーズは、実在する会社キーパーズがモデルになっている。
本作のストーリーの中に、主人公が高校の時の体験が回想シーンとしてちりばめられている。それらのシーンで一貫して描かれているのは、同級生や、あるいは教師でさえも持っている「自分は当事者にはなりたくない」という気持ちである。他人のことに積極的に関わるのをためらう雰囲気が、学校にも、会社にも、ネットにも、社会の底流に存在している。これはなにも現代社会に特有の問題ではなく、ずっと以前から存在したことなのだろうと思う。
その一方で、人はさまざまな関係性の中で生きている。昨年3月11日の震災以降「絆」という言葉がさかんに使われるようになったが、「絆」という言葉には、どこか押しつけ的な感覚、あるいは自分自身では選択できないもののようなニュアンスが含まれている気がして、個人的にはあまり使いたくないと思っている。血縁のような自分ではどうにもならない関係もあれば、たとえば人のブログにコメントを書くといった自発的で選択可能な関係もある。そのようなものを全部ひっくるめて「つながり」という言葉を使うほうが自分にはしっくりくる。
さて、本作で表現されている「つながり」の一つは、死者とその遺族の「つながり」である。不幸にして生前にはその「つながり」が途絶されてしまっていたが、死によって「つながり」が復元されるケースがいくつか描かれている。遺品には、故人が生前に思っていたことの形跡が残されているものが多い。その形跡が「つながり」を復元するのである。いや……、軽卒に『「つながり」を復元する』と書いてしまったが、正確にはそうでない。本人たちが忘れていても「つながり」はずっと存在し続けるのである。だから「つながりの存在を再認識させる」と言ったほうがいい。
もうひとつ描かれている「つながり」は、偶然出会った主人公たちの「つながり」である。主人公の人物設定によるものであるが、本作での会話はとてもゆっくりと交わされる。普段早口でたくさん伝えることに慣れてしまっている自分には実にじれったいテンポであるが、その会話の一つひとつに相手の対する思いやり、特に、このような状況に至ることになった過去の経緯に対する配慮や共感が感じられる。こうして生まれた新しい「つながり」から、「生きたい」という思いが生まれた。ネタバレになってはいけないので詳しく書かないが、映画の終盤に、これまでの辛い体験にさらに追い打ちをかけるような惨事が起きる。しかし、新しい「つながり」のおかげで、その惨事をも乗り越えて、主人公はこれから先の人生をしっかり生きていけるだろう。そう思えるからこそ、この映画を観終わった後に救われた気持ちになるのである。
最後は映画表現のテクニックのような話になるが、ストーリー上の重要なシーンが、映画の後半にもう一度視線を変えて映し出される。その視線は主人公を見守るまなざしである。ところが、エンドロールが終わった後にもう一度、海岸でのシーンがかなり遠くから映し出される。この視線はいったい誰の視線なのだろうと考えて、映画を見ている私自身の視線なんだと思い当たった。このカットによって作者は、鑑賞者の一人ひとりに「周りの人をやさしく見守っていますか?」「つながりを大切にしていますか?」と問いかけているのではないだろうか。

“「アントキノイノチ」” への6件の返信

  1. 映画なので目を覆いたくなるような映像はほんの少しだけでしたが、それでもこの仕事のたいへんさがよく伝わってきました。

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