「ALWAYS 三丁目の夕日 ’64」

1964年に私は5歳だった。その当時の記憶はかなり曖昧であるが、家にやってきたばかりのテレビで東京オリンピックを観たのをはっきりと覚えている。父親が運転するダイハツ・ミゼットの助手席に座っていた記憶もある。だから、とても懐かしかったし、それを六ちゃんが運転しているのを観て、ちょっと不思議な感じがした。
実は、今回が3D映画初体験であった。かなり以前にディズニーランドかどこかでごく短い3D作品を見たことがあるが、本格的な3D映画はこれが初めてである。「画質が今ひとつ」とか、「眼が疲れる」とか、勝手な先入観を持っていたが、予想外に好印象を持った。本作はもともと昭和30年代の風景を再現する高度なCG技術が売りの映画なので、そこからさらに一歩踏み出して3D化するのは当然の流れである。全体として、かなり控えめでありながら、それでいて効果的な3Dだったと評価したい。
さて、映画の中身に話を進めると、実は私は「ALWAYS 三丁目の夕日」も「ALWAYS 続・三丁目の夕日」も観ずに、いきなり本作を観た。もちろん、これまでのあらすじをごく簡単に調べておいたが、その程度の予備知識だけですっと本作の世界に入って行けた。とても単純なストーリーだが、随所にほろりとさせる場面がちりばめられており、笑える場面も多い。几帳面に作られた良作である。
映画が終わってから、この作品の時代と現在とを比べて、私たちが得たものと失ったものは何だろうかと考えた。いろいろなことが頭に浮かんで整理がつかないが、とても乱暴な言い方をしてしまうなら、「情報」の「報」の手段が飛躍的に高度化したが、逆に「情」の中身が伝わりにくくなったのではないだろうか。これについては、また別の機会に触れてみたいと思う。
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