シュルレアリスム展を観てきました

国立新美術館で行われているシュルレアリスム展を観てきました。
私が尊敬するアジェ(Eugene Atget)の写真がシュルレアリスムの中心人物のひとりであったマン・レイに評価され、機関誌「シュルレアリスム革命」で大きく取り上げられたという事実が、私のシュルレアリスムへの関心の出発点です。
ただ、多くのシュルレアリストたちの作品とアジェの写真との間にあまりに大きな隔たりがあることに、ずっと違和感を持っていました。今回シュルレアリスムの代表作をたくさん見ることができて、その隔たりの理由が分かったような気がしました。
シュルレアリスムの重要な方法論の一つに「オートマティズム」があります。「写真を撮る」というプロセスがまさにこの「オートマティズム」に該当するという理由で、純粋に記録としてパリの風景を撮り続けたアジェの写真がシュルレアリストたちの目に留まったのでしょう。
ただ、ブルトンが「シュルレアリスム宣言・溶ける魚」で下記のとおり定義しているように、シュルレアリスムはあくまでも「心」が出発点なのです。

「シュルレアリスム。男性名詞。心の純粋な自動現象であり、それにもとづいて口述、記述、その他あらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気づかいからもはなれた思考の書きとり」

アジェの写真の本質は、作者の「心」をいっさい消し去った「記録」に徹しているところにあって、一般的な意味での芸術性を排除することで逆により高次の芸術が出現する可能性を高めている点にあると、私は考えています。アジェをシュルレアリスムの写真家だと分類する人が多いですが、それは間違っていると確信しました。
追記:
本稿の内容とは関係ないですが、ダリの「不可視のライオン、馬、眠る女」を見て、彼の筆力はやはりすごいと感じました。