「沖縄陸軍病院」は、陸軍第32軍の病院として、1944(昭和19)年5月に熊本で編成されました。6月から那覇市内で活動を開始しましたが、10月10日の空襲で施設が焼失したため、南風原国民学校校舎に移転しました。その後、第32軍の指導で約30の横穴壕が造られ、1945(昭和20)年3月からは壕内で活動することになりました。広池文吉病院長の下、軍医・看護師・衛生兵の合計約350人が任務に就き、さらに3月24日には沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222名が、引率教師18名と共に動員されました。
4月1日に米軍が上陸してからは激増する負傷兵に対応するために、外科が第一外科に、内科が第二外科に、伝染病科が第三外科に改められました。ただ、薬や医療器具が不足していたので、傷口から炎症が広がるのを防ぐために、麻酔もなしに負傷した手足を切り落とす治療しか行えませんでした。下の写真の第20号壕では、狭い通路の片側に寝台が置かれ、そこに負傷兵が寝かされる状況だったそうです。
その後戦況は悪化し、第32軍司令部は5月27日の夜に首里城地下の壕から南風原町津嘉山の壕へ、さらに30日には糸満市の摩文仁へと撤退します。これに伴い陸軍病院も糸満市伊原などに撤退することになりました。その際、重症患者には青酸カリが配られて、自決の強要が行われたと言われています。
現在一般に公開されている20号の入り口。崩れやすいので補強してあります。案内してもらって壕内に入りましたが、通路が狭く天井も低く、当然ながら懐中電灯を消すと真っ暗がりになります。
24号の入り口。こちらは草むらの中にあり、入ることができません。
入場券代わりの栞に書かれた歌の作者・長田紀春さんは、当時は軍医見習士官でした。
切り落とせし兵の脚をば埋めにゆく
女子学生ら唇噛み駆ける
詠 長田紀春
私の基本的な考えは以下の通りです。
・人と人が殺し合ってはならない。
・人を殺すための道具を持ってはならない。
・武力に対して武力で対抗してはならない。
・「抑止力」は最も危険な「導火線」である。
世界中から紛争や戦争がなくなることを心から願っています。私がこれまでにこのブログで国や戦争について書いてきた文章へのリンクはこちらです。
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