森高千里さんの「渡良瀬橋」に因んだ写真(→こちら)を撮るために足利市を訪れたついでに足利氏のルーツに触れたいと思ったので、足利氏宅跡であり、その後は足利氏の氏寺となった「鑁阿寺(ばんなじ)」にも行ってきました。「鑁阿寺」は真言宗大日派の本山で、本尊は大日如来です。
「鑁阿寺」に向かう道の左手には足利尊氏の像があります。ただ……、訪れた後で知ったのですが、尊氏は母親の実家があった丹波国(現在の京都府綾部市)で生まれ、鎌倉で育ち、その後はずっと京都を本拠地としたので、一度も足利の地を訪れたことはなかったそうです。つまり足利荘は、鎌倉幕府の御家人だった尊氏の父・貞氏の代までの足利氏の所縁の地なのです。
足利氏は、清和源氏の流れを汲む氏族です。そもそも清和源氏は、清和天皇の孫の経基王(六孫王)が臣籍降下により源経基と名乗ったことから始まります(→清和源氏家系図)。そして、そのさらに一派である河内源氏の棟梁・源義家(八幡太郎義家)の四男の源義国が下野国足利荘に下り、その次男・義康から足利氏を称するようになります。ちなみに、鎌倉幕府を築いた源頼朝は、八幡太郎義家の長男から続く嫡流です。
ということで、鎌倉幕府を開いた源頼朝も、室町幕府を開いた足利尊氏も、武家の棟梁である征夷大将軍となる者は清和源氏の流れを汲んでいます。それゆえ、後に徳川家康は家系図を捏造してまで清和源氏を仮冒したと言われています。戦国時代には戦さの勝敗がすべてを決めたような気がしますが、最終的に天下人となるためには血統が重んじられたのです。日本の(支配者)の歴史において、なぜそういう傾向が生まれたのかについては、別途考えてみたいと思います。
コメント