米軍が沖縄に上陸する直前の1945(昭和20)年3月6日、県立第二高等女学校の生徒(白梅学徒)は、東風平国民学校に本部を置く第24師団衛生看護教育隊に入隊しました。そして3月24日に、八重瀬町新城にある野戦病院の分院(新城分院)などで看護補助の任務につきました(→こちら)。主な任務は、手術や処置の際の明かり(ろうそく)持ち、負傷兵の排泄物の始末、切断された手足の処理などの看護補助でした。
しかし、戦況の悪化に伴い6月3日に病院が閉鎖され、翌6月4日には解散命令が出されました。学徒たちは数名ずつに分かれて「鉄の暴風」と形容されるほど激しい戦闘の中をさまよい、56名中22名が命を落としました。この「白梅之塔」がある糸満市国吉は学徒たちが最終的にたどり着いた場所で、ここでも米軍の激しい攻撃に遭って多数の死者がでました。
沖縄戦の概要はWikipediaに詳しく書かれています(→こちら)。下の表は1950年に沖縄県援護課が発表した死亡者数です。
分類 | 死亡者数 |
---|---|
県外出身日本兵戦死者 | 6万5908人 |
沖縄県出身軍人・軍属 | 2万8228人 |
戦闘に参加・協力して死亡した住民 | 5万5246人 |
一般住民 | 3万8754人(推定) |
合計 | 18万8136人 |
沖縄戦における住民犠牲については(→こちら) |
私の基本的な考えは以下の通りです。
- 人と人が殺し合ってはならない。
- 人を殺すための道具を持ってはならない。
- 武力に対して武力で対抗してはならない。
- 「抑止力」は最も危険な「導火線」である。
世界中から紛争や戦争がなくなることを心から願っています。私がこれまでにこのブログで国や戦争について書いてきた文章へのリンクはこちらです。
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