「国という存在の起源」(→こちら)の続きです。国というのは「ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男」の末裔たちが主張する「縄張り」です。だから、「国境」があり、「国境」をめぐって他の「小男」たちとの間で「縄張り争い」が絶えません。
一方、「ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男」が現れるずっと前から、土地には人が住み、日々の生活を営んでいました。人々は自分たちの場所(「風土」や「郷土」)を愛していました。
ここで「ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男」の末裔たちがおこなった巧みなマジック(=概念操作)は、人々がもつ風土愛や郷土愛を、国への愛(=愛国心)にすり替えることでした。繰り返しになりますが、「国」というのは「小男」たちが主張する「縄張り」であって、「風土」や「郷土」とは異質な概念です。
また、競技(スポーツ)の原形は、戦争における兵士の戦闘のシミュレーションです。実際の戦闘では血が流れ人が死にますが、いちいち人が死なないように工夫して、兵士の戦闘能力を競わせるようにしたのが競技(スポーツ)の元々の姿です。そして「小男」の末裔たちは、実際の戦闘を「競技化」することによって、ほんとうは「小男」たちのためにしている争いなのに、兵士自身のための戦いでもあるように勘違いさせることに成功しました。
「ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男」の末裔たちは、外部に次々と敵を作ることによって、「風土愛」や「郷土愛」からすり替えた「愛国心」を鼓舞できるようになったのです。みんなそれに気づいていないのがとても不思議です。
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