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Opinion

慰霊の日にあたり

本日6月23日は「慰霊の日」です。今から73年前(1945年)の今日午前4時頃、沖縄防衛第32軍の牛島満司令官と長勇参謀長が摩文仁の軍司令部で自決し、沖縄戦の組織的戦闘が終結したとされています。なお、自決の日は6月20日、あるいは6月22日だったとの説もあり、その後7月になっても各地で散発的な戦闘が続いたようです。

牛島満軍司令官と長勇参謀長が自決した摩文仁第32軍司令部壕。

沖縄戦の末期に多数の住民や兵士が飛び降りて自決した喜屋武岬。
喜屋武岬


これまでに訪ねた戦跡を、沖縄戦の進展の順にまとめました。

【1910年代】

 奉安殿・忠魂碑

【1941(昭和16)年12月8日】真珠湾攻撃および宣戦布告。

【1944(昭和19)年3月15日】陸軍第32軍が創設される。

【1945(昭和20)年3月】「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などに動員命令。

 旧陸軍病院壕跡 南風原壕群20号

【4月1日】米軍が読谷村に上陸。

 読谷村の戦跡(シムクガマ・チビチリガマなど)

 米軍上陸の地碑

 チビチリガマ

 特攻艇秘匿洞窟群

 電信屋の碑

 ぬちしぬじガマ

 旧天願橋

【4月8日から5月18日】嘉数高台・前田高地・前里52高地での激戦

 嘉数高台(第七〇高地)

 前田高地(ハクソー・リッジ)

 安里52高地(シュガーローフ)

 西原町小波津の民家の塀

 斎場御嶽の艦砲穴

【5月27日】陸軍第32軍司令部が首里から撤退

 首里城の戦跡(沖縄守備隊第32軍陣地壕の入口)

 南風原町津嘉山の民家の塀

 轟の壕(トゥルルシガマ)

 茶処 真壁ちなー(柱に残る弾痕)

【6月4日】「白梅学徒隊」に解散命令

 ヌヌマチガマ・ガラビガマ

【6月13日】旧海軍司令部壕で大田實司令官が自決

 旧海軍司令部壕

【6月18日】「ひめゆり学徒隊」に解散命令

 ひめゆりの塔と沖縄陸軍第三外科壕跡

 沖縄陸軍病院第一外科壕

 白梅之塔

【6月23日】摩文仁の陸軍司令部壕で牛島満司令官と長勇参謀長が自決

 喜屋武岬(平和の塔)

 摩文仁第32軍司令部壕


下の表は1950年に沖縄県援護課が発表した死亡者数です。

分類死亡者数
県外出身日本兵戦死者6万5908人
沖縄県出身軍人・軍属2万8228人
戦闘に参加・協力して死亡した住民5万5246人
一般住民
3万8754人(推定)
合計18万8136人
沖縄戦における住民犠牲については(→こちら

【八重山諸島の「戦争マラリア」に関する戦跡】
八重山諸島では、戦闘による以外にも、マラリア発生地域に強制的に疎開させられた多数の住民がマラリアに罹患して亡くなりました。いわゆる「戦争マラリア」です。

八重山戦争マラリア犠牲者慰霊之碑

忘勿石之碑


<Wikipedia等へのリンク>

沖縄戦

読谷村の戦跡めぐり

ひめゆり学徒隊

白梅学徒隊

ひめゆり学徒隊の軌跡


沖縄戦の戦跡ではありませんが、忘れてはならない場所があります。1959年6月30日午前10:40頃、飛行中にエンジントラブルを起こした米軍ジェット機F100が石川市(現うるま市)の市街地に墜落し、民家をなぎ倒した後、宮森小学校の校舎に激突して炎上しました。死亡者17名(うち小学生11名・住民6名)、負傷者210名。

 うるま市立 宮森小学校


このような悲惨な歴史を繰り返してはならないです!

私の基本的な考えは以下の通りです。

・人と人が殺し合ってはならない。
・人を殺すための道具を持ってはならない。
・武力に対して武力で対抗してはならない。
・「抑止力」は最も危険な「導火線」である。

世界中から紛争や戦争がなくなることを心から願っています。私がこれまでにこのブログで国や戦争について書いてきた文章へのリンクはこちらです。

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