これまでに紹介してきた沖縄の戦跡を、沖縄戦の進展に沿って時系列に並べてみます。沖縄戦の最大の特徴は、激しい戦闘が市街地で繰り広げられ、多くの住民や学徒が犠牲になったことです。沖縄戦における住民の戦争参加については(→こちら)、住民犠牲については(→こちら)。
【1910年代】
【1941(昭和16)年12月8日】真珠湾攻撃および宣戦布告。
【1944(昭和19)年3月15日】陸軍第32軍が創設される。
【1945(昭和20)年3月】「ひめゆり学徒隊」「白梅学徒隊」などに動員命令。
【3月26日】米軍が慶良間諸島の座間味島などに上陸。
【4月1日】米軍が沖縄本島の読谷村・嘉手納町・北谷町に上陸。
【4月16日】米軍が伊江島に上陸
【4月8日から5月18日】嘉数高台・前田高地・前里52高地での激戦
【5月27日】陸軍第32軍司令部が首里から撤退
【6月4日】「白梅学徒隊」に解散命令
【6月13日】旧海軍司令部壕で大田實司令官が自決
【6月18日】米軍司令官バックナー中将戦死
【6月18日】「ひめゆり学徒隊」に解散命令
【6月23日】摩文仁の陸軍司令部壕で牛島満司令官と長勇参謀長が自決
【8月15日】終戦
下の表は1950年に沖縄県援護課が発表した死亡者数です。
分類 | 死亡者数 |
---|---|
県外出身日本兵戦死者 | 6万5908人 |
沖縄県出身軍人・軍属 | 2万8228人 |
戦闘に参加・協力して死亡した住民 | 5万5246人 |
一般住民 | 3万8754人(推定) |
合計 | 18万8136人 |
沖縄戦における住民犠牲については(→こちら) |
【八重山諸島の「戦争マラリア」に関する戦跡】
八重山諸島では、戦闘による以外にも、マラリア発生地域に強制的に疎開させられた多数の住民がマラリアに罹患して亡くなりました。いわゆる「戦争マラリア」です。
【宮古島の戦跡】
本土決戦までの時間を稼ぐという目的から、宮古島には3万人もの兵士が駐屯し要塞化されていました。地上戦はなかったものの、たびたび空襲や艦砲射撃を受けて大きな被害が出ました。また、マラリヤによる病死や食糧不足による餓死も多数発生しました。
<Wikipedia等へのリンク>
■沖縄戦
沖縄戦の戦跡ではありませんが、忘れてはならない場所があります。
1948年8月6日、米軍が伊江港で不発弾や未使用爆弾を船に積み込む作業をしていた際に、荷崩れによって5インチロケット砲弾約5,000発(125トン)もの弾薬が爆発しました。ちょうど港に客船が到着した時だったので、死者107名、負傷者70人という大惨事になりました。
「団結道場」は、伊江島における「土地闘争」の拠点であり、土地闘争の歴史や思想を学ぶ場として活用されてきました。
1959年6月30日午前10:40頃、飛行中にエンジントラブルを起こした米軍ジェット機F100が石川市(現うるま市)の市街地に墜落し、民家をなぎ倒した後、宮森小学校の校舎に激突して炎上しました。死亡者17名(うち小学生11名・住民6名)、負傷者210名。
このような悲惨な歴史を繰り返してはならないです!
私の基本的な考えは以下の通りです。
・人と人が殺し合ってはならない。
・人を殺すための道具を持ってはならない。
・武力に対して武力で対抗してはならない。
・「抑止力」は最も危険な「導火線」である。
世界中から紛争や戦争がなくなることを心から願っています。私がこれまでにこのブログで国や戦争について書いてきた文章へのリンクはこちらです。
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