沖縄戦における日本の陸軍第32軍の司令官は牛島満ですが、米国の陸軍第10軍の司令官はサイモン・B・バックナーです。牛島司令官らの自決によって組織的戦闘が終結したとされる1945年6月23日のわずか5日前、18日午後1時15分に、バックナー司令官は糸満市真栄里の高台で戦況を視察中に日本軍から攻撃を受けて戦死しました。勝敗はもはや決まったも同然の時期なので、油断があったのかもしれません。日本軍は彼を識別していて、彼が居る高台めがけて砲撃を集中させたとのことです。致命傷になったのは、一式機動四十七粍速射砲による砲撃、九六式十五糎榴弾砲による砲撃、小野一等兵の小銃による狙撃など諸説がありますが、出血が激しく、撃たれてから約10分後に治療の甲斐なく亡くなったそうです。中将は、第二次世界大戦中のアメリカ軍で、敵軍の攻撃によって戦死した者の中で最高位の階級です。
彼は、戦死する1週間前の6月11日に、日本軍の牛島司令官宛に以下の降伏勧告の手紙を送っています。牛島司令官と長参謀長はこの手紙を一笑に付したと言われていますが、もしこれを受け入れて降伏していたら、沖縄戦の最終局面で最南端の海岸線に追い詰められて亡くなったたくさんの命が救われたかもしれません。まあ、当時の日本の軍部において、そういう選択肢はありえなかったのでしょうが……。
第三十二軍司令官 牛島満中将閣下へ
牛島将軍、貴下に敬意をこめて、この一書を呈します。貴下は歩兵戦術の大家にして、我々の尊敬を集めるに充分な、立派な戦をされました。私も貴下と同じ歩兵出身で、貴下が孤立無援の、此の島で果された役割と成果に、満腔の理解を持ち、かつ賞讃を惜しまぬもので有ります。
然しながら、すでにこの島の飛行場は、自由に我々の、使用する所となりました。この上貴下が、戦闘を継続して前途ある青年たちを、絶望的な死に追いやる事は、甚だ意義のない無益な事と私は信じます。私は人格高潔な指揮官である貴下に対し、速かに戦をやめ部下の生命を、救助せられる事を勧告します。明十二日、マブニ海岸沖の軍艦上に我が方の軍使を待期させます。貴軍に於かれても、軍使五名を選び、白旗を持って、同地海岸に差し出される様、切に望みます。米軍上陸軍司令官 シモン、バックナー中将より
昭和二十年六月十一日
旅行のスケジュールが押して慌てていたことと、予習不足のために、私は高台の階段を登った正面近くにあった碑を、よく碑文を確認せずに撮ってきましたが、どれも「バックナー中将慰霊碑」ではありませんでした。目的の「バックナー中将慰霊碑」は、これらの碑の左手奥にあったのです。たぶん、その場所が、実際に彼が亡くなった場所なのでしょう。帰宅後に碑文を確認して、目の前が真っ白になりました。誠に恥ずかしい限りです。これは「もう一度来なさい」というサインでしょうか?
第96歩兵師団・副団長クローディアス・M・イーズリーの追悼碑。バックナー司令官が亡くなった翌日の6月19日に戦死しました。
歩兵383連隊・連隊長エドウィン・T・メイの慰霊碑。沖縄戦で最も熾烈だったと伝えられる「嘉数の戦い」を戦った連隊長です。
私が撮ってこなかった「バックナー中将慰霊碑」の写真は(→こちら)にあります。
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