「建国記念の日」にあたり、何度かアップしてきた記事を再度アップします。
本日2月11日が「建国記念の日」と定められたのは、初代天皇とされる神武天皇が紀元前660年1月1日に即位したという記述が「日本書紀」にあり、旧暦を新暦に換算すると2月11日になるからです。
「日本書紀」は日本の正史だとされていますが、完成したのは奈良時代の西暦720年で、時の政権(天武天皇と持統天皇)の意向を色濃く受けて編纂されたものです。
「日本書紀」は中国の正史に倣って漢文で書かれています。森博達さんの『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か』 (中公新書) は、「日本書紀」に使われている漢字の音韻や語法を細かく分析し、その結果、渡来中国人が著わしたα群と、日本人が書き継いだβ群が混在することを明らかにしています。また、α群のなかにも後から日本人が加筆した部分があり、その箇所も特定しています。そしてそれらの分析をもとに、α群・β群の述作者の特定にまで踏み込んでいます。
私としては、単に日本の歴史上の出来事を追うだけでなく、当時の社会や海外の情勢、あるいは政敵の動向などを踏まえて、歴史を動かしてきた「為政者の意図」を知りたいと思っています。「為政者の意図」のなかで最大のものは、いかにして自分と自分の子孫の私腹を肥やすかです。以下は、何度も再掲してきている「国と為政者の本質」についての考察です。
国という存在の起原について、バックミンスター・フラーが「クリティカル・パス」にこのように書いています。
自分の民と群れの世話をしている羊飼いの王(※)がいる。そこに、ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男がやってきた。彼は羊飼いの王のところに乗りつけ、頭上から見おろして言う。「さて、羊飼いさんよ、あんたがあそこで飼っているのはとてもみごとなヒツジだからな。知っているかい、ここら荒野であんな立派なヒツジを飼うっていうのはかなり危険なんだぜ。この荒野は相当危ないんだ」。羊飼いは答える。「俺たちは何世代もこの荒野でやってきたが、困ったことなど一つも起きなかった」。
それ以来、夜ごと夜ごとヒツジがいなくなり始める。連日のように、ウマに乗った男がやってきては言う。「まことにお気の毒なことじゃないか。ここはかなり危険だって言ったろう、なあ、荒野じゃヒツジがいなくなっちまうんだ」。とうとう羊飼いはあまりに災難がつづくので、男に「保護」を受ける対価としてヒツジで支払い、その男が自分のものだと主張する土地で独占的に放牧させてもらうことに承諾する。
羊飼いが侵入している土地は自分の所有地だという男の主張にあえて疑問をさしはさむ者はいなかった。男は、自分がその場所の権力構造であることを示すために棍棒を持っていた。彼は羊飼いの背丈をはるかに越えて高く立ち、あっという間にウマで近づいて羊飼いの頭を棍棒でなぐることができた。このようにして、何千年も昔に、20世紀でいうゆすり屋の「保護」と縄張りの「所有権」とが始まったのである。小男たちはこのときはじめて、いかにして権力構造をつくり、その結果、いかにして他人の生産力に寄生して生活するかを学んだのだった。
その次に、ほかのウマに乗った連中との間で、誰が本当に「この土地を所有している」と主張できるかを決する大規模な戦いが始まった。……(※)原文は「king shepherd」。国ができる前の時代の物語に「王」が登場するのは違和感を感じますが、たぶん「長」や「リーダー」という意味だろうと思います。
(『クリティカル・パス―人類の生存戦略と未来への選択』バックミンスター・フラー、 梶川 泰司訳 白揚社 P135~136)
「国」という存在の本質は、この寓話のなかで、「ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男」が、棍棒の力を背景に、自分がその土地の所有者であると主張した「なわばり」です。つまり、「国」は元来「民」のものではなく、「小男」が勝手に自分が所有者であると主張した土地です。17〜18世紀の市民革命によって「小男」の末裔である「絶対君主」は倒されましたが、それに代わって「国」を運営することになった「政治家」や「官僚」も、本質的に「小男」の末裔に変わりません。人類は未だにほんとうの民主主義を経験していません。
一方、「ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男」が現れるずっと前から、土地には人が住み、日々の生活を営んでいました。人々は自分たちの場所(「風土」や「郷土」)を愛していました。
ここで「ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男」の末裔たちがおこなった巧みなマジック(=概念操作)は、人々がもつ風土愛や郷土愛を、国への愛(=愛国心)にすり替えることでした。繰り返しになりますが、「国」というのは「小男」たちが主張する「縄張り」であって、「風土」や「郷土」とは異質な概念です。
競技(スポーツ)の原形は、戦争における兵士の戦闘のシミュレーションです。実際の戦闘では血が流れ人が死にますが、いちいち人が死なないように工夫して、兵士の戦闘能力を競わせるようにしたのが競技(スポーツ)の元々の姿です。そして「小男」の末裔たちは、実際の戦闘を「競技化」することによって、ほんとうは「小男」たちのためにしている争いなのに、兵士自身のための戦いでもあるように勘違いさせることに成功しました。
「ウマにまたがり棍棒を腰に吊るした小男」の末裔たちは、外部に次々と敵を作ることによって、「風土愛」や「郷土愛」からすり替えた「愛国心」を鼓舞できるようになったのです。みんなそれに気づいていないのがとても不思議です。
ほんとうの民主主義は、「国」という存在がなくなったときに実現します。その次に登場するもの(仮に「国に代わるもの」と呼ぶことにします)は、次のような特徴を持っています。
- 「国に代わるもの」の運営は、「伽藍方式」によってではなく、「バザール方式」によって行われる(「伽藍とバザール」については→こちら)。
- 「国に代わるもの」では、代議員が運営方針を決めるのではなく、構成員一人ひとりが直接意見を述べることができる(直接民主主義)。
- 多数決によってたった一つの方針を決めるのではなく、多様な意見や主張がそれぞれ尊重され、お互いに対立しないように調整される。
- 一つの方針を打ち立てて「民」を率いる「リーダー」はもはや存在せず、多様な意見や主張を調整する「コーディネーター」が重要な役割を果たす。
- 「税」の本質は「小男による収穫物の横取り」なので、これは廃止される。「民」は自分が受けた公共サービスに対して、適正な代金を支払う。さまざまな理由で代金を払うのが困難な人には、代金の免除などの措置が講じられる。
- 「国に代わるもの」の範囲は、かならずしも地理的な区域と一致しない。
- 複数の「国に代わるもの」の間で意見の食い違いが生じた場合にも、話し合いによって解決され、戦争のない世界が実現する。
この「Opinion」のカテゴリーにアップしている文章は、いつの日か思わぬ場所から泉が湧き出すことを願って書いているのですが、世の中に変化が起きる出発点は「教育」だと思っています。世界中の学校で、次の3つのことがきちんと教えられるようになったら、泉が湧き出す日がぐっと近づくのではないでしょうか。
- 多様性の尊重
- 他者を傷つけたり殺したりしてはいけないこと
- 答えはすでに用意されているのではなく、自分で考えて見つけ出すものであること
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