旧陸軍病院壕跡 南風原壕群20号へは、2016年11月以来の再訪です。前回の記事は(→こちら)。
「沖縄陸軍病院」は、陸軍第32軍の病院として、1944(昭和19)年5月に熊本で編成されました。6月から那覇市内で活動を開始しましたが、10月10日の空襲で施設が焼失したため、南風原国民学校校舎に移転しました。その後、第32軍の指導で約30の横穴壕が造られ、1945(昭和20)年3月からは壕内で活動することになりました。広池文吉病院長の下、軍医・看護師・衛生兵の合計約350人が任務に就き、さらに3月24日には沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒(ひめゆり学徒)222名が、引率教師18名と共に動員されました。
4月1日に米軍が上陸してからは激増する負傷兵に対応するために、外科が第一外科に、内科が第二外科に、伝染病科が第三外科に改められました。ただ、薬や医療器具が不足していたので、傷口から炎症が広がるのを防ぐために、麻酔もなしに負傷した手足を切り落とす治療しか行えませんでした。第20号壕では、狭い通路の片側に寝台が置かれ、そこに負傷兵が寝かされる状況だったそうです。
その後戦況は悪化し、第32軍司令部は5月27日の夜に首里城地下の壕から南風原町津嘉山の壕へ、さらに30日には糸満市の摩文仁へと撤退します。これに伴い陸軍病院も糸満市伊原などに撤退することになりました。その際、重症患者には青酸カリが配られて、自決の強要が行われたと言われています。
なお、今回は壕内の写真も撮ることができたので、明日(その2)にアップします。
19号壕の入口。内部は崩落していて中には入れません。
24号壕の入口。こちらも中に入れません。
米軍からの砲撃が続くなかを、ひめゆり学徒たちが14kgもある食糧の樽を炊事場から壕まで運んでいました。実際に歩いてみると、かなりの急坂です。
南風原文化センターに展示されている当時の飯上げの様子を再現した人形。
壕内部の写真は(その2)に続く。
下の表は1950年に沖縄県援護課が発表した沖縄戦の死亡者数です。
分類 | 死亡者数 |
---|---|
県外出身日本兵戦死者 | 6万5908人 |
沖縄県出身軍人・軍属 | 2万8228人 |
戦闘に参加・協力して死亡した住民 | 5万5246人 |
一般住民 | 3万8754人(推定) |
合計 | 18万8136人 |
沖縄戦における住民犠牲については(→こちら) |
このような悲惨な歴史を繰り返してはならないです!
私の基本的な考えは以下の通りです。
- 人と人が殺し合ってはならない。
- 人を殺すための道具を持ってはならない。
- 武力に対して武力で対抗してはならない。
- 「抑止力」は最も危険な「導火線」である。
世界中から紛争や戦争がなくなることを心から願っています。私がこれまでにこのブログで国や戦争について書いてきた文章へのリンクはこちらです。
【追記】
〜人、〜民族、〜教徒といった具合に、人にラベルを貼ることをやめれば、今世界各地で起きているような争いは起きないでしょう。ラベル貼りの習性は、たぶん、太古の昔の初期人類の進化の過程から生まれたものだと思いますが、それを自由と平等の理念によって乗り越えてこそ、人間の人間たる所以ではないでしょうか。
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