奈良県の明日香村には、飛鳥時代の史跡がたくさん残っていて、日本の中央集権律令国家の誕生の地と言われています。「国」や「日本」という存在についていろいろ考えを巡らせている私にとって、大いに関心のある場所です。ほんの半日でしたが、近鉄飛鳥駅付近の史跡を巡ってみました。今年は、明日香村にある他の史跡も巡ってみたいと思っています。
まず、私が以前からもっと詳しく知りたいと思っていた天武天皇と持統天皇の陵から訪問しました(なお、橿原市の丸山古墳を天武・持統天皇陵とする考えもあります )。この二人の天皇が、飛鳥浄御原令の施行や日本書紀の編纂などを通して、現代にまで続いている「日本」の形を確立したと言っていいと思います。
簡単に概略をまとめると、天武天皇は古代日本最大の内乱とも言われる「壬申の乱」で大友皇子(弘文天皇)に勝利して政権を握り、中央集権的な律令国家の建設に着手しました。飛鳥浄御原令という日本最古の体系的な令(法典)や、日本の正史としての日本書紀の編纂などを命じますが、志半ばにして686年に亡くなります。
天武天皇の死後、皇后だった鸕野讚良皇女がその遺志を引き継ぎ、689年に飛鳥浄御原令を施行します。ここで初めて、「倭」に代わる国号「日本」、「大王(おおきみ)」に代わる王の称号「天皇」が制度的に定まったとされます。そして690年に、鸕野讚良大后は持統天皇として即位します。
余談ながら、持統天皇(鸕野讚良皇女)は13歳で天武天皇(この時はまだ大海人皇子)に嫁いだのですが、持統天皇から見て天武天皇は叔父に当たります(天武天皇は、持統天皇の父であり大化の改新を行った天智天皇の弟)。現代では考えられないことですが、当時の皇室では珍しいことではなかったようです。
なお、日本書紀については、こちらの記事で紹介しているように、日本語学者の森博達さんが漢字の音韻や語法を細かく分析することにより、渡来中国人が著わしたα群と、日本人が書き継いだβ群が混在することを明らかにしています。日本人が書き継いだ部分に、天武天皇と持統天皇の意向が色濃く反映されているのだと思います。
飛鳥駅から一本道を歩いていくと、陵が見えてきます。
階段を登ります。
陵から眺めた明日香村の景色。
(その2)に続く。
コメント