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藤原道長の望月の歌の新解釈について

あまりテレビは観ないほうですが、朝ドラと大河ドラマとブラタモリは毎回観ています。特に「光る君へ」は、平安時代についてほとんど知識がないので、ドラマということを割り引いても、新たに得られることが多くておもしろいです。

さて、藤原道長といえば、「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」という、いかにも時の最高権力者らしいエラソーな歌が有名ですが、「光る君へ」での道長の描かれ方はこの歌から受ける印象とはかなり違います。さらに、この歌には新しい解釈(→こちら)があることを先日知って、道長のイメージがだいぶ変わりました。リンク先の記事を読むと分かるように、この歌が読まれたのは満月の夜ではなく少しかけ始めた一六夜で、祝いの宴の二次会で、道長・頼通父子、左右大臣、右大将・実資という政権の中枢にいる5人が盃を交わして結束を確認した後だったとのことです。特に道長は、今まで自分におもねらなかった実資が息子の頼通に酒を勧めてくれたことが嬉しかったようです。

京都先端科学大学教授の山本淳子さんによる新解釈に基づいて現代語訳すると、「今夜は心ゆくまで楽しいと思う。空の月は欠けているが、私の月(「后となった娘たち」と「宴席の皆と交わした盃」)は欠けていないのだから」といった感じになり、だいぶニュアンスが変わってきます。まあ、それでも最高権力者らしい歌であることに変わりはないですが……。

藤原道長

コメント

    • 一八〇二 日月
    • 2024.07.21 5:10pm

    これまで知られている解釈は、全て的を射ていないようです。

    今夜は十六夜、私の状況と同じだ。望月(わが娘たち)が、当家から欠けてしまった。ただし嘆くことではない。天皇の子を生し、この後は、我が子孫が、永遠に天子として代々続いていくのだから。

    「望月の欠けたること」は、未来推量している訳ではありません。過去・現在完了の事実を表現しています。

    十六夜の当日は、実際に、月が欠け始めている状況です。欠けていることの現在完了の状態です。
    道長の状況も、同様に欠けてしまった状態であると言っているのです。

    「なしと思へば」のナシを、皆さん、「無し」という意味でしか解釈していません。
    このナシは、「無し」「為し」「生し」が掛けられています。
    道長は、娘たちの入内工作を「為し」遂げて満足しています。そして、いずれ娘たちは、子を「生し」ていきます。

    望月(我が治政)が欠けることなど「無い」とは、決して表現していません。また、望月は必ず欠けて行くものであり、それの自然の摂理を否定するようなことを歌には出来ません。

    「欠けてしまった現実」、「何かが欠けていくことは世の常である」、ということを、十六夜のその時に合わせて表現しているのです。

    娘たちは、藤原家から欠けてしまったが、実質、欠けたというこでは「無し」と歌っているのです。

      • ☆アルファ☆
      • 2024.07.21 5:38pm

      コメントをありがとうございます。なるほど、とても深い歌ですね。

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