内藤朝雄氏の『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』を読みました。用語の使い方が独特で、一般的な語句にもたくさん「 」をつけて特別な意味を与えようとしているのが気になりましたが、本書の主張の方向性には大いに共感できました。この一年間の進化心理学の勉強からわかってきた(1)集団を超えた共感の難しさ、(2)自尊心が生み出す残虐性、(3)戦争が起きる理由などとも整合し、根っこは同じだと感じました。そして、著者が考える「自由な社会」は、私がこれから提言しようとしている「自由で機能する社会」と同じベクトル上にあると確信しました。「自由な社会は、多様な人々がたがいに理解したり共感したりできなくても、攻撃したり、望ましい生き方を無理強いしたりすることなく、それぞれにとって望ましい生のスタイルときずなを生きることができる社会である」は、まさにその通りだと思います。
以下は、本書のまとめです(「全能筋書」やその「転用」という概念がちょっとわかりにくいですが、できるだけ忠実にまとめました)。
【いじめが起きるメカニズム】
- 日本では、学校が児童生徒の全生活を囲い込んで、学校の色に染め上げようとする「学校共同体主義イデオロギー」が採用されており、生徒たちは一日中ベタベタと共同生活を送ることを強いられ、この「かかわり合い」から逃げることができない
- このような環境のなかで「学校的」な群れとしての秩序(=群生秩序)が蔓延しており、この群生秩序と、人権やヒューマニズムを基礎とする市民社会の秩序との間には大きな断絶がある
- 生徒たちは「存在していること自体が落ちつかない」「世界ができそこなってしまっている」といった不全感を感じており、それに「むかついて」いる
- 不全感を抱えた者の心理システムが誤作動(爆発)を起こし、突然世界と自己が力に満ち、すべてが救済されるかのような無限の感覚が生まれることがある(この誤作動を「全能感」と呼ぶ)
- 全能感は、仲間と群れることによってしか得られない(暴力自体の全能感と、暴力を中心に群れて響き合う全能感が、ひとつのお祭り感覚に圧縮される)
- 全能という錯覚を求め続けるためには、そのための体験の筋書(全能筋書)を他の場所から転用してでっち上げ続ける必要がある(暴力、暴走、セックス、スポーツ、アルコール、社会的地位の獲得、蓄財、散財、仕事、ケア、苦行、摂食、買い物、自殺など、ありとあらゆるもののかたちが、全能筋書に転用される)
- いじめ加害者は、他者の運命あるいは人間存在そのものを、自己の手のうちで思い通りにコントロールすることによって、全能のパワーを求める(他者コントロールによる全能)
- 他者が思い通りになってくれない時には、加害者は強い不全感(独特の被害感、憎悪など=「全能外され憤怒」)が生じ、それは相手を滅ぼし尽くすまで止まらない
- 自分が多大な損失を被るとわかっていても特定の人をいじめ続けるケースはほとんどなく、いじめは合理的な利害計算に基づいている。
- 権力を手にした者は、権力の図式を、他者をコントロールするパワーに満ちた自己というストーリーに転用して全能気分を味わおうとしがちであり、特に、狭く生々しく閉じた人間関係の場に埋め込まれた権力は、そのかたちが全能筋書に転用されやすい
- 学校のクラスには、「ボス「とりまき」「普通の人」「いじめられる人」というヒエラルヒーがあり、「普通の人」は相手の行動を注意し、自分が犠牲者になる可能性にびくびくしながら生きている
- ノリの秩序(群生秩序)においては、身分不相応な振る舞いは大罪である
【著者による新たな教育制度の提案】
1.短期的には
- 学校の「聖域としての特権(=治外法権)」を廃して、通常の市民社会と同じ基準で法に委ねる
- 学級制度の廃止(単一の学校に帰属させる制度を廃止すべきだが、まず学級制度を廃止するだけでも状況を改善できる)
2.自由な社会とは
- 説明のために、まず「自由な社会」と対極にある「透明な社会」について説明する → 「透明な社会」は、何がよい「生」であるか、何がよい「きずな」であるかが、ひとりひとりの幸福追求を飛び越えて決めつけられている社会である(これと異なるスタイルを目の当たりにすると、「私たちの世界が汚された」という憎悪と被害感でいっぱいになり、自分たちの考える姿に戻すために残酷なことも平気でやる)。
- 一方「自由な社会」は、すべての人にとって望ましい一種類の生き方やきずなのあり方は存在しない(人間像は多様である)ことを前提にしており、多様な人々がたがいに理解したり共感したりできなくても、攻撃したり、望ましい生き方を無理強いしたりすることなく、それぞれにとって望ましい生のスタイルときずなを生きることができる社会である
- 自由な社会において強制されるのは、馴染めない者の存在を許す「寛容」だけである(無理をして仲良くする必要はない=距離を取る権利は保障される)
3.中長期的施策
- 義務教育 = 本人が学校に行くことを強制せず、生きていくために身につけなければならない最低限の知識に関して、保護者が子に国家試験を受けさせることを義務づける(合格するまで何度でも受験できる)
- 国や地方公共団体は、教育用途にだけ使える「教育バウチャー」を配布し、各人はこれを使って、さまざまな学習サポート団体や教材を自由に選んで学習し、国家試験を受ける
- 権利教育 = 当人が自己の意志によって参加する権利を有する教育であり、いくつかのユニットに分かれる(学問系・技能習得系・豊かな生の享受系)。「豊かな生の享受系」では、当人の意志で自由に参加・退出可能な「きずな」もつくることができる。
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