現在書いている提言のメインテーマからは少し外れる論点ですが、それでも「人類は新しい選択をして未来を変えることができる」という提言を書いている以上、「自由意志は存在し選択が可能である」という根拠を示す必要があると考えています。そのために、決定論と自由意志をめぐる長い論争について、いろいろな本を読んで理解を深めています。今読んでいる本は、木島泰三著『自由意志の向こう側ー決定論をめぐる哲学史』です。なお、著者の木島氏は決定論の支持者です。
決定論と自由意志をめぐる論争は古代ギリシャの時代から現代に至るまでずっと続いていますが、特にニュートンに始まる古典力学が大きな成果を挙げてからは、自然法則を根拠にした決定論が強く主張されるようになりました。このような決定論からは、「この宇宙が誕生した時からすべての出来事が自然法則によって決定されているのだったら、人間の自由意志なんて存在しないじゃないか」という不穏な帰結が出てきます。決定論に従えば、「ある人が朝出かける前に、たまたまその日の気分で派手な色の服を選んだお蔭で、自動車の運転手がその人に気づいて、交通事故で死ぬのを免れた」という選択肢も、この宇宙が始まった時からすでに決定されていたことになります。
決定論と自由意志をめぐる論争をすごく大雑把にまとめると次の表ようになります(本当はもっと複雑に枝分けれしてわかりにくのですが……)。【スマホの場合は横位置にして見てください】
分類 | 決定論か非決定論か? | 自由意志は存在するか? |
ハード決定論 | 決定論 | 存在しない |
両立論 | 決定論 | 存在する(決定論と両立する) |
運命論 | 決定論(神による予定説等) | 存在しない |
自由意志肯定論(リバタリアン) | 非決定論 | 存在する |
木島泰三著『自由意志の向こう側ー決定論をめぐる哲学史』では、「決定論者たちは何を貫こうとしてきたか?」という節でこう述べています。それは『「自然主義的人間観の肯定」ではないか。「自然主義的人間観」とは、自然科学を用いて解明された知見によって、世界と人間をすべて理解しようとする立場だ。つまり人間の意志なり自由なり主体性なりが、そのようなものをあらかじめ想定できない要因によって決まってしまう、という事実こそが、貫こうとしている立場の核心にある』
逆に「リバタリアンたちは何を守ろうとしているか?」という節では、こう述べています。『単なる非決定は、宇宙の出来事の経過に「枝分かれ」がありえて、そのどちらにでも進みうる、というだけのことだが、ケインは、これは自由が成り立つために必要な条件であるとしても、十分な条件ではないと考え(Kane 1996, pp.170-171)、自由意志をより積極的に「自分自身の目標または目的の創造者(ないし創始者)でありかつその維持者であることができるという、行為者の諸能力」と規定する(Kane 1996, p.4)』
このケインの主張の十分な条件の箇所こそ、まさに私が言いたいことです。人類が新しい目標や目的を創造できるから、そのための提言を行おうとしているのです。
一方、決定論者たちが貫こうとしてきたもののなかで、「自然科学を用いて解明された知見によって、世界と人間をすべて理解しようとする立場」という箇所は、まるで「自然科学を用いて解明された知見」を絶対神のような存在に祀りあげているようで、強い違和感を感じます。たしかに、自然科学が発見した数々の法則が人類に大きな恩恵をもたらしたことは否定できない事実です。しかし、自然科学の法則はあくまでも、自然をある特定の角度から眺めた時に見える一面的な、あるいは断片的な像でしかありません。しかも、測定機器や数学の方程式などの道具を通して眺めた像(つまり道具に依存した像)です。
特に、量子力学的な物の見方が広がる前の古典力学の方程式は決定論的な結果しか出てこない枠組みなので、その結果を根拠に決定論を主張するのは、たとえば「もっぱら青色の波長の光だけに反応するセンサーで測定した結果をもとに、この世界には青色の光しか存在しない」と主張するようなものです。
ただ、この論争について私は数冊の本を読んだ程度の初心者なので、この例え話はもしかすると間違っているかもしれません。実はこの世界は決定論に支配されているのかもしれません。しかし、上の表の分類の「両立論」の立場にいる哲学者のダニエル・デネットは、著書『自由は進化する』のなかで、「決定論か非決定論かは『原子レベル』での話で、それらが集まってシステムとして構成された『設計レベル』では、決定論か非決定論かに関係なく選択は可能で、自由意志は存在する」と述べています。自分にとっては、この主張がいちばん腑に落ちます。
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